「戦艦ミズーリ」は、1944年1月29日に進水式を迎え、世界で最後まで現役で活躍した戦艦です。戦艦ミズーリの艦上で、第二次世界大戦が正式に終結しました。
現在は、「戦艦ミズーリ記念館」として一般公開され、「アリゾナ記念館」とともに太平洋戦争の歴史を世界中の人々に伝えています。
この記事では、戦艦ミズーリの歴史背景と、ふたつの記念館を紹介します。
日本人が知っておくべき、悲しい戦争の傷跡です。
戦艦ミズーリの歴史背景
戦艦ミズーリの歴史
- 1941年1月ニューヨーク州ブルックリンのニューヨーク海軍造船所で造船。
- 1944年1月進水式。戦艦の命名者は、ミズーリ州の上院議員ハリー・トルーマンの愛娘マーガレット・トルーマン。
- 1944年6月アメリカで最後に完成し、最後に退役したため「最後の戦艦」と呼ばれる。初代艦長は、ウィリアム・キャラハン。マイティー・モーの愛称で親しまれる。
- 1945年9月東京湾に停泊した戦艦ミズーリ艦上で、日本の降伏文書調印式が行われる。正式に第二次世界大戦が終了。
- 1999年1月パールハーバーで「戦艦ミズーリ記念館」として一般公開。
第二次世界大戦中の役割
- 1944年12月真珠湾に寄港、翌年に空母レキシントン率いる艦隊に加入。
- 1945年2月硫黄島上陸作戦を支援。
- 1945年3月沖縄での攻撃作戦に参加。
- 1945年4月沖縄上陸作戦に参加、海上から砲撃を行う。
- 1945年4月4月11日、特攻隊戦闘機1機による攻撃を受け、右舷甲板後部を破損。
- 1945年8月降伏文書調印式のため東京湾に入港。
- 1945年9月9月2日、連合軍艦隊が見守るなか、降伏文書調印式が行われる。
神風特攻隊戦闘機の激突
1945年(昭和20年)4月11日 鹿児島・喜界島沖、上空約30メートルから1機の神風特攻機が突入し、戦艦ミズーリの右舷艦尾に衝突。
対空砲火を避けるように海面すれすれの超低空を飛行する零戦が、右舷後方に衝突し、炎と白煙が上がる様子が記録に残っています。特攻機は、海軍鹿屋基地を飛び立った「第五建武隊」16機のうちの1機、岡山県出身の石野節雄氏(二等飛行兵曹・19歳)の搭乗機とみられています。
突入機の右翼が副砲塔に衝突し、燃料に引火して辺り一面が炎に包まれます。特攻機が積んでいた爆弾は、すでに投下されていたためか爆発することはありませんでした。鎮火作業後に、デッキで特攻機搭乗員の遺体が発見されたそうです。
戦艦ミズーリのウイリアム艦長は、命を賭して勇敢に自らの任務を全うした行為に敬意を表し、甲板に残されたパイロットの遺体を弔うことを決定。翌朝、星条旗に描かせた日の丸を使い、多くの乗員が参加して海軍式の水葬が行われ、遺体は静かに海に戻されました。
戦艦ミズーリ主要諸元表
・全長:270.4m
・全幅:33m
・喫水:11.6m
・高さ:63.9m
・排水量:53,000㌧
・最大速力:33ノット
・造船所:ニューヨーク海軍造船所
・クラス:アイオワ級(他にニュージャージー、ミズーリ、ウィスコンシン計4隻)
・進水:昭和19年(1944年)
・主砲:口径40.6センチ(3砲塔9門)
・副砲:口径12.7センチ(10砲塔20門)
・機関砲:CIWS(4基)
・ミサイル:トマホーク巡航ミサイル(32基)、ハープーン対艦ミサイル(16基)
戦艦ミズーリ記念館
戦艦ミズーリ記念館(USS Missouri Memorial)は、アメリカ・ハワイ州ホノルルにあり、パールハーバーの一部として有名です。エントランスで、チェスター・ニミッツ提督の銅像が迎えてくれ、見え隠れする戦艦ミズーリの艦首に期待がふくらみます。
さらに戦艦に近付いていくと、全長270mの戦艦の巨大さに圧倒されます。
これが一番大きな16インチ主砲。初めて見る主砲の迫力に大興奮です。実物の副砲やハープーンミサイルも、間近に触れて見学することができます。
これは、特攻機が衝突した痕跡。右舷後方の手すりが、特攻機が衝突した衝撃でゆがんでいます。大炎上した特攻機から見つけられたパイロットの遺体は、アメリカ兵が水葬してくれました。敵兵にも関わらず、丁寧に水葬してくれたアメリカ兵に感服します。
この地点は、降伏文書調印式が行われた会場。東京湾に停泊していた戦艦ミズーリの甲板で、連合国のマッカーサーと日本帝国政府を代表した重光葵外務大臣が調印式に臨みました。
日本降伏記念プレート。この時、日本は戦争に負けました。
戦艦ミズーリ記念館
63 Cowpens St, Honolulu, HI 96818, USA
・ホノルル市内から車で約25分。
・ホノルル市内からバスで「Aloha Stadium」または「Pearl Harbor」方面行きのバスに乗り、「Pearl Harbor Visitor Center」停留所で降車。
戦艦アリゾナ記念館
戦艦アリゾナの歴史
戦艦アリゾナは、真珠湾攻撃(1941年12月7日)による沈没で知られています。真珠湾はアメリカ太平洋艦隊の重要な拠点であり、戦艦アリゾナも1930年代後半から太平洋艦隊に所属し、真珠湾に常駐していました。
真珠湾攻撃と沈没
日本は、アメリカの石油禁輸措置に反発し、太平洋艦隊を無力化するために真珠湾への奇襲攻撃を行いました。1941年12月7日の朝、約360機の日本航空機がアメリカ艦隊に攻撃を開始。アリゾナは、その戦艦群の中で標的となり、爆弾が艦の前部に命中、弾薬庫が爆発して沈没しました。
この爆発により、艦内の1,177名の乗員が命を落としました。これはアメリカ海軍の艦船で最も多くの犠牲者を出した事件であり、真珠湾攻撃の死者の中でも、その多くを占めています。
戦艦アリゾナ記念館
フォード島の東側で沈没したアリゾナ。水深12mの海中に静態保存し、1962年に船体中央をまたぐように「USS Arizona Memorial」として記念館が建てられ、訪れる者にその歴史と犠牲を伝えています。
記念館は亡くなった兵士を慰霊するための施設でもあり、戦死した乗組員名簿が慰霊スペースの大理石に刻まれています。この記念館は、真珠湾攻撃の象徴的な場所として知られ、戦艦ミズーリ記念館とともに多くの観光客が訪れます。
記念館では、山本五十六元帥を紹介するパネルも掲示されています。山本五十六元帥が、アメリカとの戦争を望んでいなかったことや、多くの日本兵士の証言ビデオが紹介されていました。
アリゾナの涙
航空写真をよく見ると、記念館の真下で、海底に沈んで横たわるアリゾナが見てとれます。戦艦アリゾナからは、現在でもオイルが漏れているそうです。「アリゾナの涙」と呼ばれる所以です。
山本五十六記念館
連合艦隊司令長官(元帥)山本五十六が乗艦した戦艦長門の軍艦旗が、戦艦ミズーリ記念館から、新潟県長岡市の「山本五十六記念館」に寄贈されました。「長門」が米軍に接収された際に米兵が持ち帰り、戦艦ミズーリ記念館で保管されていたものです。
「長門」は、世界七大戦艦のひとつと言われ、日本海軍の象徴として日本国民にも親しまれました。山本五十六記念館でも、アリゾナ記念館との交流が紹介されています。
山本五十六記念館
新潟県長岡市呉服町1-4-1
・JR信越本線「長岡駅」より徒歩10分。
・関越自動車道「長岡IC」より車20分。
山本五十六|やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば
ミズーリ記念館とアリゾナ記念館は、太平洋戦争の暗い影を現代に伝える歴史遺産。陽気で明るいオアフ島には、たくさんの観光名所がありますが、「パールハーバー」という歴史の視点から観察しても感慨深いと思います。特攻隊員の遺体を水葬してくれたアメリカ兵の写真を見て、涙が溢れました。
コメント